意味なんかない

貧乏くさいといえば、わたしの休日の昼ごはんである。みそ汁の残りと冷やごはんがあると「おじや」を作成することが多い。なんのことはない、要は「猫まんま」である。小鍋にみそ汁とごはんを投入して煮立てて、頃合を見て卵を割り落とす。ごはんはやわらかめが好きなので、できれば5分ほど煮てから卵を入れたいけど、腹が減っているときはそれすら待てず、煮立って即、卵。弱火で蓋して待つことしばし、丼によそって、いただきます(さすがに鍋から直接は食べない)。卵は割りほぐさず、黄味がとろんとした半熟状態で食べるのが唯一のこだわりで、さらに、ふりかけをかけて食すのが最近のお気に入り。錦松梅みたいないいやつなんかじゃなくて、アルミの小袋に入った、あれです。ジャンク。今日は何味にしようかな、って選ぶのがまた楽しい。ひとり台所でいいともや芸能ニュースなんかぼーっと見ながら、ふうふうしつつ黙々とスプーンを口に運ぶ。やすらかなひととき。お腹いっぱいになったら部屋に戻って昼寝したりして。平和だ。ちなみにおじやもふりかけも子供の頃にさんざん刷り込みされたアイテムである。育ちってこわい。
物語を生きる―今は昔、昔は今より。

多くの現代人はこの世との「関係」を切断され、根無し草のようになってしまった。便利で能率よく生活することが可能になったが、いったい何のために生きているのか、その意味が急に希薄に感じられるようになったのである。「意味」とは、関係の在り方の総体のようである。私と私を取り巻く世界との関係がどんなものかわからずに生きていても、「意味」が感じられないのも当然である。


現代人は、個人を独立した存在として、それを中心に考えるので、関係性の喪失に苦しむことになる。孤独は現代人の病である。それは孤独な死へとつながる。

フィッシュマンズの「BABY BLUE」をふいに思い出した。「意味なんかないね 意味なんかない 今にも僕は 泣きそうだよ / 君とだけ二人落ちていく BABY IT'S BLUE 友達もいなくなって BABY IT'S BLUE」
佐藤さんの歌詞の刹那的なところや2人ぼっち感は、そういうことを踏まえているように思う。理屈ではなく、音も言葉も丸ごとひっくるめて、ひとつの空気として伝わってくる。それは悲観したもの、批判すべきものではなく、(少数派でこそあれ)わたしたちの世代のリアルな皮膚感覚だった。だからこそ今になってより多くの人にフィッシュマンズは支持されているのかなと思ったり。 切実で誠実な表現であったとやはり思う。