不均衡

高円寺の雨の夜の猫さん

久しぶりに「ピヤノアキコ」のばらの花を聴いている。矢野さんバージョンは、今にも花びらがこぼれおちそうに咲きほこった大輪のバラの花が目に浮かぶよう。朽ちはじめる寸前の美しさ、爛熟、みたいなイメージ。「薔薇」という文字が似つかわしい。とげが指にささったときの痛みやすっかり乾いてカサカサになった花びらの手触りを連想したり、枯れかけた花にまで美を見出す人の心のありようを思う。くるりバージョンだと、バラの花の香りがどこからか漂ってくる、くらいのニュアンスに感じるけど。ハラカミ版は、どこか甘い胸の痛み成分だけを抽出したような感じ。もの憂く切ない。

去年の春、何がそんなに悲しかったのかと考えてみると、自分が心の支えにしているほど相手はそうじゃないということを、改めて思い知ったからだと、今になってわかる。現実に支えにしている人は別にいると前から気づいてたけど、それでも、打ちのめされた。でも、人と人との思いがつり合うかどうかは、そんなに重要じゃないと今は思える。そもそも思いなんてはかれるものじゃないし、わりきれないことばかり、現実にはわかりやすい答えなんて見つからなくて当然。去年より少し、強くなったかも。

職場でのことを母と話していて「アンタは負けん気が強いからイジメがいがある」ということになって、妙に納得。たしかにわたしは大人しいようでいて変に勝ち気でむこうみずに突っ走るところと、ナイーブな面とがある。そう簡単にへこたれません。

こうやって思いばかり先走るところが、秋だなあ、と個人的には実感します。