アムリタ考

昨日の夜ひさしぶりに電話で話した友人Pに(ていうか電話で人と長く喋ること自体ひさしぶりだった)「今日はつい飲んじゃったよー」と言ったら「飲んでないんじゃなかったのか?」と問い質された・・・スミマセン。昨日は何だか気がゆるんでしまって、夜ぼやーっと過ごしたかったんです。晩酌する頻度は本当に減ったんだって!でもこのところ外では結構飲んでるな。おいしくお酒が飲めるのも、生きてる甲斐ってもんです(自己正当化)。

読みかけの本もこれから読む予定の本もあるんだけど、読書がどうもはかどらない今日この頃です。そのかわりに、というわけじゃないんだけど、最近なんとなく頭にあることと、吉本ばなな「アムリタ」の思い浮かんだ箇所を引用しつつ、何かちょっと書いてみようと思います。アムリタは、読み返すというより、生活の合間にふと思い出されたところを、夜寝る前なんかに本を手に取って細部を確認する、という付き合い方をここ何年もしている、ような気がします。古くからの友達みたいな小説。
(なお、前後の脈絡なしに本文をそのまま抜き出すと、意味のとりづらいところが多いような気がしたので、一部適当に中略しようと思いますが、そのせいで細かなニュアンスが変わってきてしまうかもしれません。かなり主観の入った引用ということで、勝手ですが、ご了承下さい)

主人公朔美の、自殺した妹(現恋人の元恋人でもある)の真由が、腹違いの弟で超能力小僧で小学生の由男の、夢に出てきたときの言葉。

「私は急いだだけ。あとは誰も悪くない。そう思ってる。由ちゃんも早熟だから気をつけて。私みたいに急がないで。お母さんの作ったごはんとか、買ってもらったセーターとか、よく見て。クラスの人たちの顔とか、近所の家を工事でこわしちゃう時とか、よく見て。あのね、実際生きてるとわかんなくなっちゃうけど、楽屋にいるとよく見えるの。空が青いのも、指が五本あるのも、お父さんやお母さんがいたり、道端の知らない人と挨拶したり、それはおいしい水をごくごく飲むようなものなの。毎日、飲まないと生きていけないの。何もかもが、そうなの。飲まないと、そこにあるのに飲まないなんて、のどが渇いてしまいにんは死んでしまうようなことなの。ばかだからうまく言えないけど、そうなのよ。後悔してないって、言って。みんなに。夏休みの宿題を、私はいつも日記とかまではじめの一週間でやっちゃって、みんながなかよくおしまいの方であわてるのがうらやましかった。でもやっちゃうの、こわくて。そういう子だったの。でも今度は日記はそうはしないで毎日つけるし、夏の暑さも陽ざしも、その日のことはその日に感じるようにする。急いだの。ただそれだけ。」

実際に自分の指で打ってみると、言葉が拙い分だけ余計に胸に染みるなーと思いました。自分の中の真由っぽい面について、昔からなんとなく意識したりしなかったりしていて、この科白はとりわけ印象深いです。「急いで」しまうことって、生活の中でわたしはよくある気がします。頭でっかちで、感性のどこかが行きすぎていて、「普通」にやっていくには何かが決定的に欠けている気がして、そんな風に思うこと自体がそもそも自意識過剰で不遜で。

2〜3日前に仕事中立ち働きながら不意に思ったんだけど、自分が孤独だということは、それこそ思春期の頃から人よりしっかり受け止めているつもりでいて、だからこそ身の回りの人たちや、親しい友人にはできるだけ優しくありたいと願って行動してきたけど(少なくとも心構えとしては)、自分以外の人も皆それぞれに孤独なんだ、ということにまでは考えが及んでいなかったのかもしれない。どんだけ幼いんだ自分、と気づいてびっくりした。この世の誰もが、一人きりなんだ、と改めて思ったら、自分にも、もっとできることがあるような気がした。そうやって目の前が不意に開けたような感じを味わったら、朔美と、初対面で超能力者のメスマ氏の、ビアガーデンでの会話を思い出した。

「頭を打ってからのあなたの人生は、まったくの白紙、おまけ、予想外のもので、なんのシナリオもなくて、そのことをあなたはどこかで知っている。それが淋しかったり空しかったりしないように、ものすごい注意を払っている。すごい孤独です。本当の絶望に至るのは簡単です。そうならないことが今のあなたのすべてです。
夜中に、自分が誰なのかわからなくて目覚めることがあるでしょう。それが、あなたです。すごく、もろい状態なのです。」
「孤独なのはみんな同じだし、自分が特別と思う人は、いつもギャラリーを必要としているから、」
言いながら真由がかすかによぎった。
「そんな生き方はしたくないんですけど」
「あなたを支えているのは意志の力でもなく、その考え方の中にある、何か美しいもの。はじめて笑うときの赤ん坊や、すごく重い荷を持ち上げる瞬間の人間や、すごく飢えている時のパンの匂いや、そういう物に似たもの。あなたのおじいさんも持ってた。何かそういう方法を自然に受け継いでる。妹は持ってなかった。弟は持ってる。何だろう、そういうもの。
笑顔がきれいです。希望の匂いがします。」

考えてみればわたしだって、伴侶もいなければ子供もおらず、かろうじて働いてはいるけど、代わりはいくらでもいるような仕事をどうにか人並みにやっていくために薬のんで、こんな自分、十年前は予想すらしなかった(そもそも、昔から、将来のビジョンとか持てない人間ではあったけど)。いわば、これまでも、この先も、「白紙」みたいなもので、だからこそ、今もこうやってただ過ぎてゆく時間を、他の誰でもなく自分のためにせめて楽しんでもバチはあたるまい、という気がしたのです。どう感じるのも自由なら、楽しまなきゃ損、みたいな。気の持ちよう一つで、にわか雨は気持ちのよい天からの恵みにも、みじめで不快な邪魔ものにもなりうるわけだから。まあその「気の持ちよう」こそが難しかったりするのだけれど。
「自分が特別と思う人は、いつもギャラリーをしているから」というくだりは「そうなのかなー、そうかもしれないなー」という感じで昔からなんとなく気になる部分です。

メスマ氏との出逢いについて朔美が由男に電話で話したときの、由男のセリフ。

あのね、あの人と話していて、カリフォルニアのこととか聞いてると、僕が感じやすすぎるからだと思うんだけど、それがまるですごく幸せな遠くの星の話みたいに聞こえてきて、なつかしいような、行きたくて仕方がないような気持ちになるの。知ってるんだけど、それはほんとうの、僕が感じる外国じゃないんだ。あの人といれば、あの人のうしろにはいつだって、夢みたいに居心地がいい、海とか空とか友達とかが見えるもの。あの人のまわりには何かたまらない空気があって、一緒にいるだけでそこに住めるの。行きたいと思ったら、すごく行きたい気がして止まらなくなった。それが彼の力なのかと思ってはじめはいやだったけど、今はわかるんだ。僕が行きたいから、彼の気持ちが入ってきたってこと。

今回ここがふと目に留まって、これって、キセルの音楽にわたしが感じてることに近いかも、という気がした。女性ファンが多いのも、その「感じやすさ」によるのではないかと。人によっては、「いつでも変わらない」音楽に聞こえたり、「優しい」とまず言われるような音楽で、それももちろん正しいのだろうけど、「何かたまらない空気」、そこにまずわたしはひきつけられます。「数人にしか通じない、強烈な合い言葉」(出典が今思い出せないんだけど、これも多分ばなな)、そんな要素のある音楽のように思ってます。

なんの脈絡もなくだらだら書いてきましたが、終わります。オチなし。