もういくつ寝ると

ここ一年くらいライブが近づいてきて慌てて髪を切りに行くことが多いです。というわけで今日も行ってきました。最近行っている店ではほとんど口をきかずに(そういう客だと認識されてて、たしかにそうなんだけど、それはそれでちょっとだけさみしかったりもする)ひたすら雑誌を読みふけります。今日はまず年始の占い特集号を読んでいたら、生年月日からちょこまか計算する類の記事があって、これは読み飛ばすかと思いつつもちら見したらなんと、計算の例に使われているのが自分と全く同じ生年月日で、目を疑いました。おかげで、そんなに知りたかったわけでもないのに、大きな厄年みたいなのが晩年に来るらしいということがわかり、なんだか狐につままれたような気もち。

ツチヤの貧格

ツチヤの貧格

うちの母はたまにものすごく的確な発言をすることがあります。「この人知ってる?」とこの本を見せたら(母は哲学科卒で、土屋氏は哲学の教授なのです)「ああなんか十年くらいまえにテレビとかで見たことあるわ、学生に人気のある人なんでしょ?」と言うので、それはどうかなと内心思いつつ、「とにかく、面白いっていうか超しょうもないよ、見てこのイラスト」と言って見せると、「キャー」と叫んでぱらぱらページをめくったあとに「でもしょうもないものを読むと、こんなんでもいいんだと思って、ほっとするわよね」。なるほど、新刊が出るたびについ読んでしまうのは、そういうことだったのか。

聖なる母と透明な僕

聖なる母と透明な僕

ランディさんの意見を全て鵜呑みにするつもりはないけど、こういうふうに、いろいろ体験して考えたり感じたことを忌憚なく言葉にしてくれる人の存在はありがたいです。最終章の最後のあたり、突き抜けて一皮むけた感があるので、これからの作品がたのしみです。

私たちはみんな、世界という象をなでている群盲みたいなものだ。象のしっぽの毛をつかんで「象は毛だらけだ」と思い、ケツの皺に触って「象は皺だらけだ」と思う。なにもわかっちゃいない。わかっていないことを前提にしてすり合わせていくしかない。

私の人生の高さを、誰が計るのだろうか。血へどを吐いて、苦しみもだえ、最期に自殺でもしたら私の人生の質は低いのか。そうではないだろう。人生の質とは誰かが管理し支配するものではない。そもそも人生に質の高さなんてないんだ。生きるということは全面肯定しかない。自殺して死ぬ瞬間まで人は生きる。死ぬ瞬間まで自分の人生をまっとうしている。そのことは称賛に値する。それなのに「生」を誰も評価しなくなった。いまの時代は、人生まで「ブランド化」され他人が値踏みする。でも、そのことにみんな気がつかない。不自由の自覚すらできないほど、蔓延した心の支配。